やっぱりけん玉が好き

惰性とボケ防止でブログを続けています

鰻ロード

江戸中期、生きたままの鰻を中海から大阪まで運ぶ輸送ルートがあった。

それを鰻道、いまでいうとうなぎロードというもの。

その影響により今でも大阪のうなぎ屋で「いずも」を

名乗る店が多いと聞く

 

という話があるのをご存じでしょうか

鰻道の詳しい経緯についてはここを参考に

 

https://www.spf.org/opri/newsletter/142_3.html

 

さてこのうなぎロード、この道について研究された方がいて

その方が書いた本を読んで興味を持たれたMさんが

そこをサイクリングロードにしたいと活動されていて、

たまたま僕と一緒にサイクリングをした後

自分が安来市に住んでいるということで

一緒にルートを探さない?とお願いに来られて

暇だし、郷土の歴史が好きな私は協力することにしました。

 

さてその本によりますとスタート地点は

安来港にある松本スポーツ店から。

 

この商売を始めた松本佐右衛門の店舗が今の松本スポーツ店だそうで

ここから、伯太川沿いの道を南下し、伯太町母里に向かったとされています。

 

その伯太川、いまでこそ土手があり、治水されていますが

江戸中期のころは暴れ川で川自体の場所が変わり、

当時の道は特定できないため

文字通り、伯太川の土手の道を使うか、

それとも違う道にするかという事になりましたが

伯太川の土手は交通量が多く、道幅も狭いため

サイクリングロードには向かないということで

近くの川の木戸川沿いを走ることにしました。

 

木戸川沿いも宮内に入ると舗装路ではなく

グラベル路になるのですが

ここは芝生のため、思ったより走りやすい路面で

ロードバイクでも十分走られます。

 

そして佐世保に入り、舗装路に戻り

安来高校の前を走り、そのまま清水寺へ続く道へ。

そして九重町に向かい、清瀬から安田に入り

一里塚を過ぎ母里へ。

 

ここまでの道、色々と選定が大変で、あれじゃない

これじゃないとウロウロしたのですが、

本には伯太川を南下くらいにしか書いてないようです(笑)。

 

さて母里からは色々と地名が記されているようです。

まずは母里藩の家老の屋敷(今は飲食店)の前を通り

「サイコダヤ」を越えるとあるようですが

現在の地図にはありません。

今は山を切り開いた道があり、

山を越えることはないので、その道を通り

本にはサイコダヤを超え、東八幡宮の下を通る

とあるので、東八幡の下で自転車を止め

地形を確認していると、お爺さんが田んぼ道を歩いていたので

Mさんがサイコダヤの場所を尋ねてみると

耳が聞こえにくいらしく、僕らを迷子と間違われ

全く質問と違う回答をされていましたが

「サイコダヤなんてもう通れん」と言われてから

ようやくサイコダヤの話が繋がり、昔の道を教えてもらえました。

 

不通部分は自転車を担いでも通れないほどもう荒れていて

シクロスでも無理となり、このコースは諦めましたが

昔は山と山の間を抜けていたと分かっただけでも

十分な情報でした。

 

さてサイコダヤの疑問は解決、

次は才ヶ谷(サイガダヤ)です(笑)。

こちらは地名が残っていて

本によりますと、才ヶ谷の先のため池の下に湧水があり

ここで鰻の水を変えたという記述があるようです。

 

Mさんによりますと、その才ヶ谷に行く前に

幕府の番所があり、周りを探していると

まるで要塞のような屋敷があり

その横に立派な石垣があるので

ここが番所か?と思い近くに行くと

お住いの方がおられたので、

Mさんが尋ねると、その屋敷のご主人が出て来られ

詳しい話を伺いました。

 

まずこの石垣は昔の造り酒屋の跡地とのこと。

旧安来銀行の頭取の実家で、昭和30年代に

廃業されて今は石垣のみのこと。

そしてこの要塞はただの私邸で、番所ではなく

ココから200m先にある公民館に昔の番所があったと聞きました。

 

このご主人にうなぎロードの事を聞くと

本の著者を知っておられ、

本では隠尾を通って県境の峠を越えるとあるけど

主人は、それは違うと思うと独自ルートを主張されました。

 

このご主人の説ではわざわざ隠尾まで登らず、

母里藩主が参勤交代のために造った道、

いわゆる大名コースを通ったのではという説です。

 

その説の理由が

・わざわざ遠回りのコースを選ばないはず。

・隠尾への道は狭すぎる。

 

因みにこの大名コース上に昭和初期にトンネルを開通させ

法勝寺電車が走っていました。

何故母里に?と今は思うのですが

昔は奥出雲から安来までは鉄の街ですから

母里も砂鉄で結構な経済力があったようです。

 

今でこそ米子は鉄道の街とも称されるのですが

伯備線を開通させるとき、終点を米子か安来が候補地だったとのこと。

米子は当時日野川が氾濫する可能性があり、

一度氾濫してしまうと、山沿いまで迂回しないといけないため

米子一択ではなく、鉄産業で賑わう安来が候補に上げられ

安来は鉄の運送手段を鉄道ではなく、港運を選んだので

終点は米子になったという話を伺いました。

なんとなくそれっぽい話ですが、真偽はわかりません(笑)。

 

そんな話を30分くらい立ち話で聞き、

貴重なお話が聞けたことを感謝して、

番所を確認して、才ヶ谷の先の堤へ。

その下にあると聞いた湧き水を探しますが、見つからず

諦めて旧法勝寺電車のトンネルへ。

ここはこの堤のため池の横にある道から200mくらいはいると

トンネルは直ぐ見つかりました。

大名コースは左のわき道からトンネルの上を越えるコースと聞きましたが

今は左に移る道がなく、雑木林となっていました。

 

一応大名コース説を確認して、次は隠尾コースです。

隠尾とはここよりさらに上ったところにある集落で

ここで行き止まりみたいな隠れた集落だったそうです。

今はその集落に住民はおらず、空き家のみ残ってます。

 

才ヶ谷から上る現行の道をそのまま進むと

法勝寺に向かう県道と繋がっています。

しかし昔はこの道ではなく、途中から峠を越える道があったと

本に書いてあるとMさんが言われ、神社の祠の横に

それっぽい道があったので、道にバイクを置き

登って道を確かめていたら、軽自動車が止まり

不機嫌な声で「そこで何しとる!!」と注意を受けました。

 

どうやら、私たちをゴミの不法投棄者では

と疑われていたようで、事情を話したところ、

なんとその本の著者を知っている人どころか

この注意された方は本の著者から取材された隠尾集落出身の方でした。

 

今は母里に住んでおられるようですが

休日とか隠尾にもどり、所有されている土地の草刈りなどの管理をされていて

最近はゴミの不法投棄が酷く、見回っていたとのことです。

そんなときに不審者の二人、怒鳴られるわけです(笑)。

 

私たちの目的が分かり、奇特な人もいるものだと

笑われてしまいましたが、色々と教えてもらいました。

まず案内してもらったのは湧水の場所。

東母里の要塞の主人に教えてもらった位置から

さらに上に100mくらい登ったところに

車の待避所があり、その直下に碑があり

その下に湧水があるとのこと。

 

待避所がのぞいてみると、もう草だらけ

否、それより多い不法投棄のゴミだらけ。

碑も湧水も確認できようがありません。

 

でも位置はわかりました。

続いて隠尾から藩外にでるためには

先程の大名コースか隠尾の坂を登るか

何だそうでが、その坂を伺うと

その坂は通称“くそたれ坂”といわれ

ウンコをするほど踏ん張らないと登れない坂だったとのこと。

 

この方の小学校低学年のときは、

両手をついてでないと登れなかったそうです。

それを大人とはいえ天秤を担いで鰻を運べたのだろうか

と疑問が生じてきます。

 

とはいえ、本の著者は隠尾コースと書いているし

今現在はこの隠尾コースのしか残っていないので

これをサイクリングコースにすることになりました。

 

まあ実際は大名ヒースと隠尾コースのどちらかなので

二つ説があるとして、色々な方に

自説を持ってもらうのも面白いのかもしれません。

 

今回はここまで。

コースの距離にしては10キロちょっとなので、

たいして走っていませんが、現地の方と

沢山話せて、思った以上の情報を集めることができました。

 

次は与一谷から法勝寺に。

そして法勝寺から二部へ。

さらに間地峠を越えて根雨に行きます。

 

 

ここまでいくと立派なサイクリングコース。

跡は補給箇所、トイレ休憩などを考えて

コースを作っていかないといけません。

 

幸い私の周りにはコース職人が多いので

コースの大枠が決まったら、相談して

鰻コースを作りたいと思います。

 

一番いいのは、食事で美味しい鰻の店があればいいけど

山で鰻はなかなか見つかりませんね。

安来なので泥鰌はあるのですけど(笑)。

 

最後にオチをつけるとするなら

安来は江戸中期から明治まで鰻の産地で有名で

大阪で今でも鰻屋にてイズモが多く使われているのは

その名残だと言われている。

まさい安来の一次産業の土壌(どじょう)は鰻だったとは。

 

おはり。