回転寿司の醤油さしペロペロの所業を
徹底的に叩いたマスコミが
いたいけな少年たちを脅して
数十年にわたり尻穴にチンポを入れたり
チンコをくわえさせていた喜多川氏への対応として
その温度差が異常と感じられないのが
不思議でならない今日この頃、
あなたは烏賊がお好きでしょうか。
さて鰻ロードについて、色々と教えてもらいました。
教えてもらったのは私に最初に鰻ロードの探索を依頼された
Mさんです。
骨折して入院してからお初でしたので
久しぶりの対面です。
私も門脇等玄さんの本を読んだと
お話すると、なぜかお困り顔に。
理由を聞くと、Mさんはついに
生きた鰻を関西に運んだ事業の創始者の
松本さんの子孫の方にお会いしたそうです。
その方に聞くと、根本から覆るお話で
なんと門脇等玄さんは松本家から
出入り禁止をくらっていたとのことです。
一体何を松本家にしたのやら。
そういえば等玄さんの著書、「旅路はるか」には
松本さんを取材した内容が一切書かれていません。
まさか出入り禁止とは知りませんが
当事者の取材なしに、よく本を書いたものです。
Mさんが松本さんから聞いた話ですと
安来港から母里付近までどうやって
鰻を運んだのか明らかになりました。
というのも、この話を聞くまでは
このルートは安来から母里までのルートは
どの本にも書いて無くありませんでした。
当時のルートは実は道の上ではなく、
船に乗せて、伯太川から安田川の分岐付近まで
川を上っていたようです。
母里から才ヶ峠まではルートが分かっていて
才ヶ峠から与一谷の道が不明で
等玄説では隠尾を通ったとし、
以前東母里付近で聞いた方は
大名道路(旧法勝寺線)という新たな説も。
私の個人的な見解ですと
門脇等玄さんの本によると
隠尾の出身者の取材で色々と聞き出しているけど
その方は鰻を運んでいたという話を知らなかった
若しくは覚えていないとの記述がありました。
流石に村を通っていれば、その手の話は話題になるので
知らないという事はないと思います。
なので私的には隠尾説は無かなと思っています。
とはいえ今はその隠尾の道しかないし
鰻を浸けたという小川も道沿いにあるから
自転車で通るのはいいんじゃないと思っています。
まあ、これだけ安来発の話が分かってきたので
さらに面白くなってきました。
そして次は四十曲の道筋になります。
いよいよ岡山県突入。
鰻の道をどんどん探索していきます。
おはり。